東海道、江尻から沼津まで歩きます。 江戸時代に東海道を歩いた人たちの平均所要日数は12泊13日だったと言われています。これが普通です。 江戸時代、東海度は江戸と京都を結ぶ街道で、中仙道と並ぶ重要な街道のひとつでした。 江戸と京の間は里程124里8丁、487.8キロメートル (km)。 日本橋を出発した人々は1日目に保土ヶ谷まで歩き、そこで宿泊します。2日目は小田原まで歩きます。3日目が箱根を越えて沼津まで行きます。そして、4日目に沼津から江尻まで行くのです。この4日間の中で一番長い距離が保土ヶ谷から小田原の48.2kmです。次に長いのが沼津から江尻までの46.8kmです。 今回は沼津から江尻の逆コース、江尻から沼津までの46.8kmを歩いてみます。江尻とはどこか。静岡市の清水駅前あたりのことをいいます。沼津まで歩く途中にさった峠という眺めの良い場所があります。 江尻から沼津まで、昔の人と同じように1日で歩いてみたわけですが、その距離に疑問が残りました。その疑問点は後で書きます。さらに、蒲原から原までのルートですが、なぜに、こんなに遠回りするのか、という疑問がわきます。 |
場所 | 江尻から沼津まで歩く |
日時 | 2018_02_20 |
コース | 電車⇒清水⇒歩き⇒沼津⇒JR電車⇒藤沢、小田急電車 |
天気 | 晴れ |
距離 | 48km |
0820 | ||||
清水駅に8:20、この時刻です。 東海道53次 江尻から沼津まで歩きます。 ルートにもよりますが50キロ弱あります。 一日で歩きとおせるか?。 |
||||
0828 | ||||
清水駅前 江尻東交差点です。 | ||||
東海道53次 日本橋を出て品川を1番目の宿場としたら、ここは18番目の宿場になります。 普通の人たちが歩いた場合は4番目、4日目の夜、宿泊する場所だったようです。 今回は逆に歩きます。 |
||||
0921 | ||||
家を4時半に出てこの時刻です。 新幹線を使うと7時10分頃には到着できましたが、 これくらいのことで新幹線を使うほどでもない、と、 各駅停車で乗り継いできました。 |
||||
0940 | ||||
さった峠の下の海岸線は、今は国道1号線、東海道線、一部東名高速道路が通る平地になっていますが、昔は親不知や大崩れのような絶壁の海岸線だったようで、山を乗り越えるしかなかったようです。その昔というのはいつまでか、については後で書きます。正式な?ルートは橋を渡って左へ行き山を登ります。 | ||||
0947 | ||||
JR東海道線 洞踏切です。ここを渡って海岸寺の方へ歩きます。 | ||||
0948 | ||||
海岸寺の脇を通ってさった峠に登っていきます。 色々な資料にある正式なルートは先ほど渡った興津川橋からすぐに川の上流に行って迂回しながらさった峠に登っていきます。 |
||||
|
||||
0955 | ||||
0957 | ||||
富士山との間にある山が気になります。 野田山、金丸山です。 |
||||
1000 | ||||
早咲きの桜が咲いています。薄寒桜です。 | ||||
1002 | ||||
ゴルフ場によくありますが、東国風のひなびた家の意味の、屋根を四方にふきおろし、壁がなく柱だけの小屋、東屋があります。 | ||||
1005 | ||||
どうしても富士山の手前の野田山が気になります。 あちらの方が眺めがいいのではないか。 しかし、ここには海がある。 |
||||
1006 | ||||
高速道路も東海道線も1号線も見えます。 太平洋岸自転車道は1号線の右側にへばりつくように通っています。そして大きく左カーブして山に隠れたあたりで油井の町の中の旧道へとつながっていきます。 |
||||
1009 | ||||
振り返ってみていますが、駐車場とトイレです。 車で来る方は、ここに車を置いて歩いていきます。 |
||||
1018 | ||||
由比の港が見えます。その向こうに野田山、そして富士山。 | ||||
1023 | ||||
由比、寺尾の町の中 | ||||
1029- | ||||
由比の駅と港がすぐそこに見えるようになりました。 | ||||
1042 | ||||
由比の交番前から見た富士山です。 | ||||
1125 | ||||
蒲原の町の中を歩いています。 | ||||
1137 | ||||
蒲原宿西木戸 ここから県道396号線を離れ光蓮寺へ向けて登っていきます。 ここから岩淵へ向けて富士川から離れて山沿いにすすみます。 ところで、今日私は50キロ近く歩く身の上です。岩淵を廻っていくよりも、新蒲原から直接、新富士駅の方へ歩きたいのです。その方が近いからです。しかし、東海道は岩淵を廻っていく、これはどうしてですか。新蒲原から新富士駅の方へ行く需要はあったはずです。需要があれば供給側に立つ船便もあったはずです。わざわざ遠回りをして岩淵を通る理由は何だったのでしょう。バイパスのとおりに行けなかったのはどうしてでしよう。くわしい説明を見つけました。リンクさせていただきます。ローリング父さんの富士探遊日記より「便道」のこと。あとでもう一度書きます。ここでは疑問だけ。 |
||||
1158 | ||||
光蓮寺前の坂 | ||||
1203 | ||||
東名高速道路の上から見た富士山です。 | ||||
1216 | ||||
町の中で、どこでも富士山を見ることができます。 | ||||
1231 | ||||
野田山の上り口です。 野田山とはなんぞや、そうです、さった峠から富士山を見たときに、間にあった山です。 |
||||
1240 | ||||
岩淵、富士川橋近く。 富士川の段丘を登ったところにある間宿(あいのしゅく)の富士川宿。 |
||||
1240-2 | ||||
富士山が大きく見えています。 | ||||
1245 | ||||
富士川橋に到着です。 今日は50キロ近くを歩きます。少しでも近道をしたいというのが人情です。 新蒲原からここまでずーっと迂回した形で富士川を越えていきます。昔もそうだったのが調べたくなります。富士川の渡しは船を使ったようですが、どうせ船を使うなら新蒲原から船で渡ればよいではないかと考えます。 |
||||
この写真は下流のバイパスから撮ったものです。 |
||||
実は、現在の富士川橋を渡るコースとは別にバイパス沿いのコース下街道というのがありました。普通に考えたら、このコースがいちばん効率的なコースのはずです。「ローリング父さんの富士探遊日記」より引用させていただきます。この文は吉原から富士川に向かう書き方になっています。 「つまり、山神社から左手の道を西に進み、潤井川を四軒橋(今の前田橋)で渡り、前田−柳島−川成島の順で富士川東岸に行き着きます。これを下街道(浜街道)と呼びました。下街道は主に人が通る道で、多くの旅人で賑わっていたそうです。しかし天和2年(1682年)、津波被害で中吉原宿が新吉原宿に所替えすると、下街道は廃止されてしまいます。富士川下流域の渡船や徒歩渡りは厳しく禁止され(下流域では徒歩渡りする旅人と区別ができないとして、やな漁を行うことですら禁止された)、鎌倉時代から続いてきた古い街道は、ここでいったん途絶えます。」 |
||||
もうひとつ引用します。 土木史研究 第10号1990年6月 審査付論文 冨士川雁堤と徳川幕府初期の治世への影響 千葉工業大学 正会員 高 橋 彌 氏 より引用 先ず、富士川東流の川成島にあった渡船場を1602(慶 長7)年に西流の岩淵に移した。そして吉原・蒲原には宿駅を、渡し場のある岩淵には間駅を指定した。その上吉原湊から蒲原間の海上ルートを、翌年に廃止し、東海道はこの間、陸路のみとした。 しかし、当時富士川はまだ東西流に分かれ、洪水のたびに主流は変化する状態で、岩淵の「渡し」は決して安定したルートではなかった。それは富士川越えに、その頃あった東海道の上街道(本道)と、吉原から川成島・宮島・五貫島をへて富士川西岸蒲原側に渡る下街道はそのままとし、吉原・蒲原間は2ルートともそのまま残さざるを得なかった事からもうかがえる。 その後、1674(延 宝2)年、雁堤が完成し東流が完全に締切られ、富士川は西流に一本化された。このため富士川の渡しも岩本〜岩淵ルートで安定することができた。その結果、1682(天 和2)年には下街道を廃止し、東海道も上街道に一本化された。以後人馬・物資の往来も増加し、幕府の厳重な管理の下に、長く徳川幕府支配体制を支える日本の動脈として機 能した。 1682(天和2)年までは下街道も使っていたということです。 なんのことはない、私は新蒲原からバイパスを歩いて、「東海道歩いたよ」と言えたわけです。どう考えても新蒲原で富士川を渡ってバイパス沿いに行った方が効率的だと考えます。昔の人もそう考えたはずです。 |
||||
1247 | ||||
富士山が見えたのはここまででした。 岩淵は富士川を遡って松野、芝川へ行く道と1号線をそのまま富士市の方へ行く分かれ道に位置します。 逆に富士駅の方から下り線は今は右折レーンが設けられていますが、昭和50年代頃は芝川へ行く車の右折車のため橋の上は大渋滞しました。 |
||||
1249 | ||||
それで富士川橋を渡ります。 | ||||
1251 | ||||
富士川橋 渡船場跡です。 富士川を渡るところは1682年以降はここしかありませんでした。前述のとおり取り締まりがきびしいために下流を自力で渡るということもできませんでした。 |
||||
1328 | ||||
柚木のあたりを歩いて吉原へ向かいます。交通量は多い。 | ||||
1335 | ||||
吉原宿は、この橋を渡った先から左にはいっていきます。 しかし、私は直行します。 |
||||
正式な東海道53次のルートは青い線の方です。 しかし、それはあくまでも吉原宿に泊まる人たちが通ったルートでありまして、沼津まで直行する人たちは赤の線のとおりに直進したはずです。 通常、街道が先にあって、その街道沿いに後から宿場町ができます。それが普通です。これだと宿場が先にあって、あとから街道ができたみたいです。順序が逆です。 そもそも最初の吉原宿は街道沿いのJR吉原駅のところにあった。そこが1639年高潮による水害のために壊滅状態になって地図上の依田原あたりに移転した。再度高潮の被害(1680年)にあって、もっと奥地の吉原本町に移転した。そのため街道がねじ曲がってしまった。しかし、宿場は移転したが道が通れなくなったわけではない。吉原に宿泊しない人々は直進しました。そのため上街道、下街道、その他の道など、いくつものルートができたようです。 私は吉原に宿泊するのではないし、吉原の町の歴史を調べているわけでもないし、ただ、昔の人が50kmを歩くのに、どれくらい苦労したか体験しているだけなので直進します。 あと20kmも歩かなければならないのです。 迂回していこうという気は、そういう気は昔の人もなかったでしょう。 |
||||
1341 | ||||
そういうわけで直進し、歩き続けますが、なにしろ車は多い。心配した信号機による時間のロスはほとんど感じていません。 信号はうまく青で抜けていますし、たまたま赤になっても、色々内職を用意していますので時間の無駄は生じていません。 |
||||
1345 | ||||
30km近く歩いてきました、体に変調はないですが、さすがに飽きてきました。 | ||||
1349 | ||||
左富士交差点。歩き始めてから28.9km地点 | ||||
1406 | ||||
ところで富士山はどうなったかというと、ご覧の通り見えません。 | ||||
1409 | ||||
吉原駅前です。30.5km地点。 | ||||
1419 | ||||
東海道線に沿って歩きます。 | ||||
1444 | ||||
旧吉原宿跡 1639年高潮による水害による宿場移転前の宿場跡です。 |
||||
1504 | ||||
東田子の浦駅前です。 歩き始めてから35キロ過ぎました。 このくらいの距離から足に違和感を感じるなど、体に異変が起きてくるはずです。 |
||||
1515 | ||||
沼津市にはいりましたが、まだ道のりは長い。 48kmのうち37km地点です。まだ距離があります。まだ10km歩かなければなりません。 駅名で言うと、原駅と片浜駅があります。 |
||||
1551 | ||||
少しだけですが、左足のかかとが擦れている気がします。 滑りの良い靴下2枚履いていますが、やはり擦れてきます。 |
||||
1601 | ||||
原駅前です。 | ||||
1628 | ||||
片浜駅前です。 | ||||
1701 | ||||
西間門の交差点 まだ、陽かさしています。明るいうちに到着できそうです。 |
||||
1722 | ||||
沼津駅に到着しました。5:22 どうにか明るいうちに到着できました。 歩いた距離をルートラボで見てみると46.1kmです。これに海岸寺のショートカットの分の差700mを加えると46.8kmとなります。これは色々なWebページにある46.8kmと一致します。 ところが私は吉原宿を通ってきていない。個別に宿場、宿場の距離を比較していくと微妙に違っている。 個別の宿場の計測位置に違いがあるのでしょう。それ以上深く考えずに、今回はこれで終わりにします。 |
||||
トップページへ | ||||
|