五家荘、樅木地域を走る
場所 | 五家荘は熊本県川辺川流域、つまり五木村の上流にあります。今では国道が通って車でも行ける場所ですが、道ができる前は、渓谷はとても急峻で歩いて行ける場所ではなかったろうと思われます。谷筋は人は歩けないものなのです。では中腹はどうかというと、はるかなるSカーブを描いて、道なき道を崖に阻まれながら行く。これもできなかったろうと考えます。では完全に孤立した地域だったかというと、そうでもない。山を乗り越えれば行けるのです。 どの山を乗り越えるか、そうです・・・・。八代の方から、泉から、山を越えてはいれば行けるのでした。今でも行政区割りは八代市になります。歴史的にも当然八代の柿迫地域とつなかりがあったようです。 さて、五家荘は樅木、葉木、椎原、仁田尾、久連子の5地域から成り立ってます。 今回はその中の樅木に行ってみます。 |
日時 | 2019_04_22 |
天気 | 晴れ |
距離 | 22km |
樅木の「平家の里」。 | ||||
中央に見えているのが資料館です。右手が能舞台 | ||||
資料館の中にこのような五家荘の3D地図が作ってあります。 日本各地には、源平合戦に敗れた平家一門が、安住の地を求めて人里離れた奥地に分け入り隠れ住んだという、落人伝説が数多く残されています。そういった地域は、平家谷や平家の隠れ里などと呼ばれ、今日に至っています。 栃木県日光市湯西川(旧栗山村湯西川温泉郷)には、平忠実が落ち延び、平家の者と知られぬために苗字を伴としましたが、これも平家再興を目指すもので「平の人」を表す隠語として用いたと伝えられます。 徳島県三好市東祖谷には、平国盛一行が屋島の合戦の後、讃岐山地を抜けて祖谷谷に移り住んだそうです。阿佐集落の阿佐家には、代々平家の軍旗とされる赤旗が伝わっています。 宮崎県椎葉村には平家の鶴富姫と追討の源氏武者那須大八の悲恋物語が稗つき節とともに語り継がれています。 このように日本各地に伝わる平家伝説の地は、奥深い秘境の地であることから、古来から人々は神秘的な存在として「桃源郷」にも似た憧れを持ったに相違ありません。 と、平家の里のパンフレットに書いてあります。 。 |
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YAHOO地図で見ると、この区域です。 | ||||
マピヨンの3D地図で見ると、このようになります。 地形的に一山向こうの柿迫と近かったというのがわかります。 下流の五木村から上ってくるのは険しすぎます。 人が山を歩く場合、渓谷を歩くことはしません。尾根筋を歩きます。五木村から渓谷沿いにしか行けません。それに対して柿迫からは一山乗り越えるだけでよいのです。古くから柿迫地域とのつながりが深かったというのがわかります。 |
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黒丸のところが板木といいます。 ここで魚釣りをしていたら上流からお椀が流れてきたといいます。 それで20キロも上流へ上ってみた・・・・と。 20キロというと二本杉峠まで行ってしまいます。話は少し大きすぎます。 |
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車に自転車積んで走っています。 五木村から川辺川をさかのぼっていきますが、渓谷があまりにも急峻なので谷の上に道がつくられています。 |
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ほとんど谷の上を走ります。 | ||||
道の下から見るとこうなります。旧道の廃道が残っています。。 | ||||
山々が迫ってきます。 | ||||
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ここに車を置いて、ここから自転車で走ります。 樅木入り口の大橋を渡ってすぐ右へいきます。 |
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再び昔の小さな橋を渡り返して奥へ進みます。 | ||||
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崖が迫っていますが、石ころは落ちていないので法面は安定しています。 | ||||
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高尾荘 | ||||
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深く分け入っていきます。 | ||||
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今日は8の字走行をしようとしています。 ぐるりと一回りするだけだと中央の様子がわかりませんので、8の字に回ります。その8の字のくびれのところに来ました。 |
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下っていくと、犬が向こうからやってきます。 私に気が付くと、じーっと立っています。 吠えてかみついてきたら、どうしようか、と、考えます。 犬は棒切れくらいでは驚きません。石を投げるしかないかもしれませんが・・・。そんな争いをしてはいけません。 こちらも、じっと待ってみるしかなさそうです。 |
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しばらく、にらみ合いがつづいたのち、犬は動き出しました。 私のところを素通りしていきました。 |
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通り過ぎて、しばらく歩いたところで、振り向いて、じーっと、名残り惜しそうにみています。 どこへいくのでしょう。 |
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そして、ずいぶん下ったのち、 沢へ下りたら、養魚場がありました。マスの養殖でもしているのでしょう。 |
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橋を渡って、向こう岸へ行きます。 | ||||
さの上流は、こんな景色です。 | ||||
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五家荘の景色。 なにしろ、平地がない。水田の跡もない。ではいったい何を食べていたのか。 焼畑です。夏に伐採して秋に火入れする。木場を作って秋に蕎麦をまく夏藪木場といいます。数年使って(3〜4年)もとの山に戻し、休ませます。(10年〜15年ほど)。 そして、9月、10月の紅葉期以前に伐採し翌春5月〜6月頃火入れして木場を作り、そこには稗を撒きます。これを秋藪木場といいます。木場は数年作って(3〜5年)もとの藪に戻す。そして20年〜30年ほど休ませます。 夏藪木場は秋藪木場に比べて休閑年数が短いので効率がいい。ので、夏藪木場は集落に近いところに作られることが多かった。これに対して秋藪木場は集落から遠い山頂、山腹などの山の上に作られることが多かった。 夏木場、秋木場の面積比率は概ね4対6でした。 2年目以降に作る作物は栗、稗、とうもろこし、大麦、芋類、馬鈴薯、大豆、小豆など夏、秋木場ともに変わりはありませんでした。 蕎麦、稗、ともろこしが主食でした。休閑年を設けるといっても肥料を与えない収奪農法ですから、自然と地力は落ちてきます。耕作される作物のうちもっともよく作られたのが稗でした。稗はやせた土地でも収穫が多かったそうです。 焼畑木場作は集落のまわりだけで行われていたわけではありません。遠くまで行き、小屋を作って、寝泊まりしながら木場を作っていたようです。このように出作を行っていたのは樅木が多かった。葉木や椎原は少なかったようです。それは地形によるものだったろうと思われます。とくに樅木の場合は一度山を下りて、さらに上って出作小屋に通う必要があったからだと思われます。 そんな中で自給食糧としてではなく副産物として茶が栽培されました。これは後々、外部に売られることになりました。 さて、焼畑ではなく集落のまわりの畑ですが、久連子が一番広く、1戸あたり0.3haくらい、樅木で0.18haくらいでした。ほとんど無いものと同然でした。従って、主力はやはり焼畑でした。 五家荘の焼畑耕作---上野福男氏より。 これから久連子、椎原、仁田尾、葉木と回りますので、それらの地形を見てみます。 |
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そして下流の景気です。 | ||||
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向こう岸にわたったら上り始めます。 | ||||
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こちらは絶壁 | ||||
今回のルートは数字の8の字の形になります。 真ん中のくびれの部分を、同じ方向に2度通ることになります。 それではおもしろくないので、最低限度ピストンにしたい。 数字の3の字を下から書きまして、一番上に行ったら左側を下へおろすように書きますと、中央のくびれの部分はピストン走行になります。 そんな走り方をします。 で、上図の矢印のところに来ました。今から引き返します。 |
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上の道のガードレールが見えています。 ここで引き返します。 |
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再び橋を渡って戻ってきます。 | ||||
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先ほどの養魚場です。そして | ||||
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犬がいる、先ほどすれ違った犬です。休んでいます。 ここで飼われている犬でした。先ほどは、散歩にでもいったのでしょう。 ずいぶん遠い散歩コースです。 石を投げたりして諍いを起こさなくてよかった。仕返しされるところでした。 |
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元来た道を上っていきます。 | ||||
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山の中腹に小さな集落があります。 | ||||
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もとの分かれ道に戻ってきました。 | ||||
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集落があります。 | ||||
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樅木つり橋 | ||||
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上から見下ろしたつり橋 | ||||
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はるか下にキャンプ場が見えます。 | ||||
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八八重というところ 「はちはえ」 |
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きれいな渓谷です。 | ||||
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材木を積んだトラックが過ぎていきます。 | ||||
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先ほどのつり橋を道路から見たところ | ||||
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反対側からのつり橋への降り口 | ||||
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泉第八小学校 |
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小学校の上から地域全体を見ています。 | ||||
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保育園生と思われる女の子がいました。 「こんにちは」とあいさつしたら、手を振ってくれました。 「暑いですね」と言ったら、「うん」と頷いてくれました。 おばあちゃんと二人で歩いていきました。 |
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はるか向こうに集落がみえます。 どこも水田を作れるような場所はありませんでした。 |
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平家の里、資料館入り口。 | ||||
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先ほどの山の中腹の集落。 | ||||
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8の字に走った場合の合流点がここです。先ほどは、この少し下のところで引き返しました。 | ||||
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国道にでました。 | ||||
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国道を走って下って・・・ | ||||
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元の場所に戻りました。 | ||||
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