五家荘、久連子から椎原へ


場所 五家荘は熊本県川辺川流域、つまり五木村の上流にありますが、行政区割りは八代市になります。歴史的にも八代の柿迫地域とつなかりがあったようです。
て、五家荘は樅木、葉木、椎原、仁田尾、久連子の5地域から成り立ってます。
今回はその中の久連子から椎原へ行ってみます。
日時  2019_04_27
天気 晴れ
距離 22km


五家荘トンネルの上流側、久連子側に車を置いて、そこから自転車で久連子にはいります。その後、林道久連子椎原線で椎原へ出まして、国道を下ってきます。
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まずは、川辺川を上っていきます。ここは、相良村四浦
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五木を過ぎて、山々がさらに険しくなってきました。
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川幅は狭くなり、両岸は崖が続くようになりました。

板木というところです。五家荘に住み着いた落人たちは深山幽谷の中で、世間と隔絶した暮らしを続けていました。その後、南北朝時代の国主、菊池肥後守武重は川上より流れてきた木椀により人家のあることを察知し、塩売り官兵衛の供述で、熊山に「五箇」という名の村があることをつきとめましたが、発見にまでは至りませんでした。
それから60年後の1394年、人口が増加した五家荘は、食料や塩の欠乏により隠れて暮らすことが困難になったため阿蘇氏に申し出て同盟を結びました。五家荘に人が住んでいることが天下に知られたのはこのときからです。
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なにしろ険しい地形で、道を作るのも難儀します。なので、谷の上に道路が作られています。
この道の下には旧道があります。
このようになっています。今では通れません。
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久連子の入り口に着きました。ここに車を置いて、自転車で行きます。
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道が狭い。
対向車が来たら、ずーっとバックしなければ離合できません。
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久連子の集落に着きました。
五家荘には水田がありません。焼畑で食べていました。
もともと焼畑というのは、他の地域でも純農業として焼畑をやっていましたが、例えば五木、水上などでも炭焼きのために山を伐採する、そのあとの植林の手段としての地拵えの方法として焼畑に変わっていきましたが、ここ、五家荘では純粋に農業の手段としての焼畑を長い間行っていました。どれくらいの広さの面積の焼畑を営んでいたかというと一戸あたり約1.5haほどと推定されます。五家荘全体で350haくらいだったといわれています。
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久連子、古代の里
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五家荘には水田がまったくなかったかというと、そうでもありません。久連子と樅木にわずかにありました。久連子に1.2ha、樅木に0.1haほどあったという記録があります。今は見られません。水田があったとすれば、上の写真の久連子古代の里のあたりか、この川向うの平地あたりだったろうと思われます。
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小学校の話ですが、久連子には泉第五小学校がありました。
第五小学校(久連子)、第六小学校(仁田尾)、第七小学校(椎原・葉木)が合併して第八小学校になっています。
五家荘5つの地域にある小学校はただひとつ樅木にあります。
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対岸から見た久連子集落の景色です。
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三叉路へ戻ってきました。
ここから椎原への林道を走ります。
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さて、先ほどの焼畑の話の続きですが、どこでも焼き払って耕作を営んでよかったかというとそうでもない。誰の山かということが問題になる。そして、山の持ち主がいるということは小作というシステムが存在しただろうということが伺われます。
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はるか向こうの山に人工林が見られます。
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この辺が今回のルートの一番高いところです。これから下りはじめます。
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杉檜の植林地
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椎原に下りてきました。
国道に出ました。
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椎原の診療所です。
五家荘、5地域の中ではここ、椎原が最も大きな集落に見えます。
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橋を渡ったら狭い道路になります。
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車の場合、向こうから車が来たら離合できません。
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久連子の入口、車のところまで帰ってきました。
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このように渓谷の上に道路が作られています。
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