芦ノ湖西尾根を歩く
2017_02_13 晴 35km (歩き20km 自転車15km)
富士山がきれいに見える場所は忍野、山中湖の高指山、精進湖のパノラマ台、山中湖のパノラマ台、長尾トンネル出口、そして金時山などです。今回の歩きは芦ノ湖を囲む山々を歩き、乙女峠と金時山を通過します。
車⇒仙石原、自転車デポ⇒道の駅「箱根峠」⇒歩き⇒海ノ平⇒山伏峠⇒湖尻峠⇒芦ノ湖展望公園⇒長尾峠⇒丸岳⇒乙女峠⇒金時山⇒矢倉沢峠⇒仙石原⇒自転車⇒道の駅「箱根峠」⇒車
芦ノ湖一周、
半分歩き、半分自転車
仙石原に自転車を置き、道の駅「箱根峠」まで車で行き、そこから右回りに歩きます。
0652
松田バイパス。今回は246をとおってきました。
何を写しているかというと、富士山に雲がかかっていないことを確認している。
仙石原住宅地の中の道路の一番上の少し下の三叉路で、幅が少し広くなっているところに自転車を置いていきます。
ここでひとつ失敗しました。SPDシューズを置いていくのを忘れて、箱根園あたりまで行って気づき引き返してきました。
30分以上のロス
。
(わすれものをしないためには、たとえばSPDシューズは前の晩に自転車にくくりつけておくとか、そのような工夫が必要ですが、それを怠っていました。
安易に車に放り込んできただけなので、自転車をデポするときに車に残したままでした)。
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道の駅「箱根峠」
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富士山に雲はかかっていない。いい天気です。
ただ、雲は西から流れてくるものではなくて、ある時突然湧き出すものですから、油断はできません。でも、最低午前中はもつでしょう。
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海ノ平
富士山を眺めるには、金時山を除けば、結局、ここがベストの位置でした。ただ、金時山に着いたときは少し暗くなっていた。
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スカイラインに沿って、富士山に向かって歩いて行く行程です。
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竹林の中の道ですが、雪が残っている。
今日は急ぎ足で歩きたかったので、登山靴ではなくて、短い普通の靴を履いてきましたので、雪がはいってきます。
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山伏峠
道は山の右手へまき道になっていますが、何がみえるか、山に上ってみました。そのまま向こうへ下りてしまえ、と考えたのが間違い。
道は藪の中、雪は深い。靴に雪がはいるし、歩きにくいし、さんざんなめにあいました。
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しかし、途中からの見晴らしはよかった。
芦ノ湖の面積は約700ha。東京の中央区が1000haだから、それより小さい。
湖に流れ入ってくる川はない。小さな沢程度のものだけです。
水位はどのように保たれているかというと湧水だそうです。
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江戸初期、今の静岡県裾野地区は主たる川がなく、カラカラに乾いた畑があるのみでした。一方左手、芦ノ湖は満々と水を蓄えている。
深良村の名主・大庭源之丞は考えていた。「これほど高い山の上に豊富な水がめがある。この水を分けてもらえないだろうか。と。
箱根用水工事のはじまりです。
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富士山は、向こうにひとつ山があるので、すかーっと見えるものではない。
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先ほど書きましたが、登山靴ではなくて、短めの靴を履いてきたので雪がはいる。
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深々とした雪。歩きにくい。湖尻峠のジャンクションがみえています。
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湖尻峠。道路を渡って上っていきます。
さきほどの箱根用水工事の続きです。
この下に深良用水トンネルがあります。1280m
猪苗代湖の水を会津盆地に流し込んだ滝沢山の隧道が1026m、猪苗代湖の方は官営、1年で完成しましたが、こちらは民営で4年かかりました。
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江戸時代宝暦、1660年代の中頃、深良村の名主、大庭源之丞が「山に穴をあけて、こっちへ流そう」と考え動きだした。友野與右衛門他3名の江戸の商人たちが、それを請けた。潤う畑が水田になる予定面積が約500ha、年間八千石、金額にして1300両の増収を見込みました。
工事期間は1年、自己資金3700両でできると見込んだ。ところが難工事となり工事期間は伸びた、幕府から6000両借入、4年かかって完成した。が、ここまでで、とうとう力尽きたのでした。トンネル掘って水は出るようになったが、それを配る用水路工事まで行う余力がなくなった。水は来たのに田に引くことができない。
幕府も藩も與衛門たちがどのような苦労をしたかわかっていた。またこの用水がどれだけ貴重かもわかっていた。
ここから先は幕府・藩主動で工事がすすめられました。
---土屋りゅうじ氏ウェブサイトより---
一両はいくらか?、時代によって、比べる品物によって変わると考えられますが、10万〜20万、ここでは10万として、9700両×10万円は
9億7千万円・・・10億から20億の間・・・(計算は合っていますか?・・・)。
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振り返って、今まで歩いてきた道。
手前の峠部分の真下を深良用水トンネルが通っています。
ざっと考えて、この下にトンネルを掘って水を流すなどというのを思いつくこと自体正気の沙汰ではない。しかし、自費で、それをやってのけた人々がいたということです。
よほどの熱意どころか命がけの熱意がなければ、これだけの工事はできないでしょう。物理的な工事だけでなく、まずは詳細な計画、資金計画、人々の間の合意形成、とくに近隣の村々との合意形成、工事許可のための幕府、藩との折衝、資金回収計画に伴う藩との証文の取り交わしなど気の遠くなるほどの苦労が伴ったことでしょう。
1206
はるか芦ノ湖展望公園がみえてきました。
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芦ノ湖展望公園
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富士山が半分しかみえません。
富士山に向って歩くということは、こういうことです。
次々に、前に山が立ちはだかってきて、富士山の全景がみえない。
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それでも、雪は深い。
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そして、道は右へ曲がりはじめ、富士山をさえぎる山がなくなったと思ったら、今度は木が邪魔になってよく見えない。
どうにか見てみると、この通り。
少し雲が湧いてきた。
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長尾峠
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長尾峠から芦ノ湖。大湧谷も見える。
もともと、ここは数十万年前から噴火を繰り返し、カルデラ湖ができたり、そのカルデラ湖が分かれたりを繰り返してきたところですが、最後は大湧谷の後にある神山が3万1000年前に爆発を起こし、手前のゴルフ場あたりをせき止めて、芦ノ湖ができた。ということのようです。Wikipediaより。
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富士見台
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富士見台の展望所から芦ノ湖
仙石原から桃源台に行くのには、見てのとおり山越えをするかゴルフ場の向って右端を通って行くしかありませんが、ゴルフ場端の道は舗装されていない箇所があります。
1310
富士見台の展望所から富士山
雲が増えてきた。
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丸岳へ向けて上る
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丸岳
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乙女峠へ向けて下る
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乙女峠
富士山が目の前です。
長尾峠からここまで1時間かかってしまった。2キロほどあります。
乙女峠と長尾峠・・・乙女峠の標高は1005m、長尾峠911mで長尾峠の方がかなり低くて利用価値がありそうですが、集落から遠い、ので昔は乙女峠がもっぱら利用された。長尾峠に国道138号線が通るようになって、こちらがメインとなった。トンネル標高は903m、その後バイパス乙女道路が有料道路として開通した。1984年の無料化によって、こちらが138号線となった。
何が言いたいかというと、峠としては乙女峠の方が高い位置にあるが、歩く場合は高さより距離が問題で、高い位置にある乙女峠の方が昔はよく利用された、ということです。
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金時山へ向けて上ります。
金時山への登山道はきれいに雪かきしてありました。
推測ですが、金時山の山小屋の管理人の方でしょう。
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金時山から芦ノ湖を見ます。
ゴルフ場が4つある。芦ノ湖の水は向こうから3つの各ゴルフ場の真ん中を流れ、手前の富士屋ホテルゴルフコースの向かって左側をとおってくる。
が、現在は湖尻水門で閉め切られており湖の水は全く流れ出ていないようです。
江戸時代は箱根も深良も小田原藩だったので問題はなかったが、明治になって神奈川と静岡に別れた、水争い事件、逆川事件が起き、裁判の結果和解、静岡側が水利権を持つこととなった。
Wikipediaより。
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金時山から見える富士山
かなり雲がかかってきました。
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今日歩いてきた道筋。
いちばん左から、山づたいに歩いてきました。
想えば遠くへ来たもんだ。
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矢倉沢峠まで下りてきました。
トンネルは峠の真下ではなく、少し上のところの真下です
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さらに、道路まで下ってきました。
仙石原、自転車デポ地点
自転車のまわりの雪が、かなり解けています。
SPDシューズに履き替えるのは、県道まで下って、ローソンで靴下を買ってからにします。
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元箱根までは3つばかり丘を越えます。
楽をしようとするなら、湖畔沿いに自転車道があり、平らなところを走れたようですが、今回はそうはしない。なぜか、答えは「その道の存在を知らなかったから」です。
必死で丘を越えていきます。
この道は、峠超えでもないのに、なぜこんなに上まで登って、そして下りてくるのでしょう。なぜ、まっすぐにできなかったのでしょう。
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桃源台へ下って、再び上る。
車だと、あまり気にしないのですが、自転車だとよくわかる。
仙石原交差点のあたりより、ここ桃源台湖畔の方がずいぶん高い位置にあるのです。
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上って、箱根園入口まで下って、また上ってくるのです。
自転車に乗る際、リュックを背負うと腰に負担がかかりますし、背負っただけで疲れます。
ので、荷物はフロントキャリアの上に乗せます。
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なんとか、1号線へ合流
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元箱根関所前まで下ってきました。
手が冷える、指が冷たくてたまりません。
1709
道の駅 箱根峠につきました。
水は歩きはじめてから1リットルくらい飲んだ。
さきほどの箱根用水の話ですが。
友野與右衛門他元締めたちは箱根用水につぎ込んだ自己資金3700両と幕府から6000両の借入は回収できたのかという話です。
結論から言うと、出した分だけギリギリ回収できた。
まず、最初の計画ですが、水を引く予定の地域がどこだったか特定されていないのですが、もともと水がなくて田を作れない地域だから、田を作れる場所には田があり、残りは畑だったはずです。畑を田に変えるのを畑成田というそうですが、これを目的としたものであり、新田開発ではないので、まるまる増収というわけにはいきません。畑から田への増収差額が年間1300両と見込みました。一度に畑から田に変えることはできません、7年かかると見込み、1年平均650両という数値がはじき出されます。7年で4500両、出費を3700両と見込みましたので収益としては固いものとなります。工事が早く進めば収益はあがる。これが最初の計画でした。
用水が完成して、用水料として元締めに支払われたのは7年間で小田原藩から4200俵、沼津代官所から1500俵、合計5700俵、金額にして3000両で、自己資金にも満たない。借入金を返すこともできなかった。そこで小田原藩、沼津代官所は用水料の徴収期間を延長したが、それでも幕府からの借入金を返済し、投入資金をやっと回収できる程度のもので、とても利益を期待できるようなものではなかった。
固い岩盤のために工事が大幅におくれ幕府から6000両借入れた、ここで計画が狂ったのでした。
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土屋りゅうじ氏ウェブサイトより
---
トンネルはできた、水は来た、しかし、まだ資金が足りない。それを配る用水路建設の資金がない。その段階で、さぞ悲しかったことでしょう。悲しかったどろではなく、この人たちは、このあと様々なトラブルに巻き込まれていくことになります。
工事の技術
トンネルは両方から掘っていきます。設計者はトンネルがぴったり合わなかった場合のことを考慮し、湖から掘る穴の方を少しだけ高めに設計した。ここが日本人です、設計は正確で工事もまた極めて正確に行われ、真ん中で穴が出会ったときには、湖から掘った穴の方が設計どおり1mほど高かったといわれています。
また、工事の際、作業者が酸欠にならないように息抜き穴も作りました。
この縦穴が工事の誤差確認に役立った。つまり、縦穴から、それぞれのろしを上げて位置の確認を行ったというのです。
次回は
箱根用水の取水口
に行ってみます。
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