奥入瀬渓流
2025_01_07 十和田湖子ノ口から奥入瀬渓流雲井の滝あたりまで歩く
歩き5.7km
0944
八戸駅西口
十和田湖へ向けて、バスは十和田市内をとおっていきます。
JRバス時刻表
十和田平野は南北に約50km、東西に約30kmの広さがありますが、低地が少なく台地が広い。かつては用水の確保が難しいという課題がありましたが、奥入瀬川からの水を利用する「奥入瀬用水路」の開通により、農業が発展しました。
その十和田平野開拓事業についてです。
三本木原台地は十和田市周辺に位置する標高の高い「台地」で、十和田平野の「一部」であると考えることもできます。この三本木原台地は、八甲田山の火山灰土が広がる肥沃な土地でありながら、雨水が地中に浸透しやすく、地表には水が少なく、小規模な用水路を作っても、井戸を掘っても水を得ることが困難で、農地として使えない 。 昔の人々は「ここに水さえあれば」と渇望し続けてきました。
南を流れている奥入瀬川は三本木原台地との高低差があったため、そのままでは水を引くことができない。どうにかして奥入瀬川の水を上げることができればと想い続けてきたことでしょう。
十和田市現代美術館
十和田平野開拓事業つづきです。
南部藩士・新渡戸傳(にとべ つたえ)と、その子、十次郎父子は1855年(安政2年)に開拓に着手し、私財を投じて奥入瀬川から水を引き込むための用水路「稲生川」の開削を主導しました。
稲生川の工事は、標高の高い奥入瀬川上流部(十和田市法量付近)を取水点とし、鞍出山と天狗山を貫く約4kmのトンネル(水路全体は約11km)を掘削しました。この難工事には、技術力の高い「南部土方衆」と呼ばれる集団が従事しました。彼らは、江戸時代に作られた奥寺堰の技術者の子孫で、正確な測量や、山を両側から掘り進める高度な「対向掘削」技術を経験的に継承していました。
1855年(安政2年)に開拓に着手した稲生川の用水路工事、(難工事、鞍出山穴堰、約2.5kmを含む
)、は翌1856年(安政3年)に完成しましたが。
しかし、この事業では、多額の費用と労力が投じられたにもかかわらず、当初の計画に比べ開田面積は約300haと少なく、経済的な効率は必ずしも良くありませんでした。
その後、長期にわたる事業、凶作時の住民支援、十次郎の急逝と事業の中断などの結果、新渡戸家は経済的に非常に苦しい状況に陥りました。
最終的に傳の念願であった十和田湖の水を利用した大規模な開墾事業は彼らの代では完結せず、新渡戸家三代の夢として100年後、昭和時代に入ってから国営事業として実現されることとなりました。
なお、新渡戸稲造は十次郎の三男です。
1152
渓流館あたりの景色
1334
十和田湖子ノ口橋 渓流はここから始まります。
1336
下流に向けて歩きます。
奥入瀬渓流とは、 青森県十和田市の十和田湖から流れ出る奥入瀬川の、子ノ口から焼山までの約14キロメートルにわたる渓流です。14キロありますが、天気の状態が良くないので、今日はとおしでは歩けないでしょう。途中でバスにのることになるでしょう。
1344
1351
1352
たくさんの人が向こうから歩いてくるので、人の顔が写らないように写真を撮っております。
1359
道路と渓流がほとんど同じ高さ。水量が安定しているということでしょう。
1402
1404
銚子大滝 見たところ堰堤に見えますが、滝です。
奥入瀬渓流は「瀑布街道」と呼ばれるほど滝が多く、ホテルの部屋をそれぞれの滝の名前にしているところもあります。
100人近くのたくさんの人たちとすれ違いました。ほとんど全員、中国の人でした。
1410
1419
1421
1421
あちこちに車が駐車しています。
1426
道路は水面と同じ高さのところもあります。
1432
気温が下がってきたのと、天気の予報も良くないので、今回はこれで切り上げます。
あとはバス旅になります。
トップページへ