ケンパーン(蘭)滞在
今日は6月22日、金曜日です。
朝早くニワトリが鳴くのですが、鳴き方が違います。
コケコッコーではない。オレオレオー、と鳴く。
「続夕日のガンマン」という映画がありましたが、あの音楽の出だしのようです。
で、今日は停滞日です。連泊します。時間調整です
本日はナールデンという町を散策します。
ナールデンという町に行きます。
グーグル地図でルートを作っていたとき、この町の存在を知った。
函館の五稜郭に似ていた。そして「オランダ紀行(司馬遼太郎)を思い出した。
・・・・五稜とか六稜という星型には死角がない。それぞれの稜の先尖を堡塁化し、砲台を置き、また小銃隊を守る胸墻を築けば、他の稜にとりついた敵兵を別の稜から射つことができる。・・・・
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ドイツもフランスも、そしてオランダも、交差点はこのようにロータリーになっているところが多い。
車はロータリーの中にはいって、ぐるりとまわりながら、目的の方向にスピンアウトしていきますが、自転車は、このように車道を突っ切る形になっています。この状態で、とりあえず、どちらから車が来るかというと、左からきます。
「まずは左から、そして途中まで行ったら右から」と、暗唱しながら渡らないと、とっさの判断ができません。
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ユンボで食糧を買ってから行きます。何があっても、まず食糧調達優先です。
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顔がいっぱいくっついたオブジェ
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何かびっり箱みたいなものを引いて走っていく車
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リカンベント自転車が走る
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こちらは日光浴する人が多い。
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もう少しで、ナールデンに着きます。
1555年以降ネーデルランド一円はスペインの属領になりました。スペインのフェリペ二世という、スペインを今のような状態まで転がりおとした人物は、あらたに属領となったネーデルランドからプロテスタントを取り除こうと八万の大軍を送って弾圧しました。スペイン軍は低地地方に進出すると残忍な宗教裁判と重税で臨みました。
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地図で見ると六稜郭であることがよくわかりますが、いざ来てみると、全体像はわかりません。ナールデン(ウィキペディア)。
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1572年スペイン軍はナールデンを包囲しました市民たちは城門を閉ざして抵抗の姿勢を示しましたが。スペイン軍は狡猾でした。われわれに他意はない、決して市民を殺さないと約束して城門を開けさせ、徹底的に虐殺してしまいました。このナールデンの大虐殺は低地地方の人々に「スペイン軍に抵抗する以外に生きる道はないと悟らせます。
ネーデルランド七州がオランダ連邦共和国として独立を宣言し、スペインと戦うことを誓い合いました。降伏すれば皆殺しにされるという恐怖が以後八十年も続くオランダ独立戦争になっていく、そのスタート地点がナールデンの大虐殺だといわれております。
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それから100年後1685年、10年の歳月をかけて再建された。むかしのままでなく、構造が基本から変えられた。虐殺されたことにこりて、不必要なほどの重厚さで要塞化された。
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六稜の星形になっていて、星の先は三角形ではなく、矢印形、もしくは銛の形になっていて、水濠がめぐらされており防禦という点において幾重にも工夫されている。単那ね星形でも死角はないのだが、六稜の先端が矢印形にされているために、死角を消すということでは一分のすきもない。さらに厳重なことに、水濠の中に点々と小島がつくられている。小島はすべて堡塁としてハリネズミのように武装されており、小銃と刀槍中心の時代では、難攻不落であったろう。・・・・オランダ紀行(司馬遼太郎)
帰りに、アルバートヘジンで食料を買って帰ってきた。
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キャンプ場に帰ってきました。
木陰にテントを移動して、ひと眠りしようとしていたら、隣のキャンピングカーのウィリアムさんという人がソーセージを食べないかい?、鶏肉をたべようぜ、ハンバーグもあるよ。と誘ってくれた。ので、誘いに応じて食べさせてもらった。
こちらの人は、驚いたらよく「オッパー」と言う。「おー」とか「えー」とか「まじかー」というかんじですね。ウィリアム氏も連発していた。
そういえばアンドレ・リウ氏のコンサートをyou
tubeでみたことありますが、やはり「オッパー」とか言っていましたね。