嘉義⇒高雄
自転車で台湾一周 4日目 11/4 晴 121km
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日本と比べて1時間の時差があります。1時間遅いのです。日本での習慣のどおりに目が覚めます。
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すごい看板群です。
そして、各家々の前はオートバイだらけ。
店に入るためには、ていねいにオートバイをかき分けていかなければ、はいれない。
歩いている男は、みんなタバコをくわえている。
そして、咳をする人が非常に多い。
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どうやら我々の住んでいる地球は傾いているらしい。
司馬遼太郎氏は、「街道をゆく」の台湾編で、そのように表現している。
何が何に対して傾いているかというと、地球が太陽の周りをまわっている公転面に対して地球が回る軸が傾いているということらしい。
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その傾きが23.5度。
太陽に対して北半球が最も顔を寄せたとき、太陽は、この北回帰線上で真上に来る。そのとき北半球では夏至になる。それから数か月遅れて夏になる。
ここでは太陽が真上に来ることがある。日本ではありえない。
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23.5度と書いてあるゲートを過ぎて南へ走ります。
帰りに、長浜と花蓮の間で再び北回帰線を横切り、北上してきます。
それまでは、熱帯地域にいるということになります。
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北回帰線を通過したとたんに暑くなったような気がしますか・・・
そんなことはない。絶対気のせいです。
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1号線から174号線にはいり烏山頭ダムへ向かいます。
八田与一記念館、珊瑚潭に行きます。
嘉南平野は広い。
嘉義・台南両庁域も同平野の区域に入るほどに広い。
大正はじめ、そこには15万ヘクタールほどの田畑に適する土地があったが、灌漑設備が不十分であるために常に旱魃の危険にさらされていた。
15万haというのは、日本では岩手県や福島県全県の耕地面積に匹敵する。
雨が降らないわけではない。降るときには降るが、洪水をひきおこし、あとは干ばつの季節が続く、さらに海岸近くの土地は潮の逆流と塩水地下水による塩害のため耕作不能という状況だった。
これだけの土地が、水さえ流せば、肥沃な土地に生まれ変わり、食料の増産は間違いなく成功する・・・・と、思った人は多くいただろう、が、具体案を持った者は現れなかった。
ただ、オランダ人が官田渓にレンガのダムを作り、水を引いたが、その規模は小さかった。
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どうも前タイヤの空気が弱い。さっきガソリンスタンドで入れてもらったが、やはりパンパンには、はいっていなかったみたいです。
Kのマークのついたオートバイ店、キムコで再び空気を入れさせてもらう。
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嘉南平野の灌漑の話の続きです。
具体案を示し、設計まで行う日本人が現れた。
1918年(大正7年)、八田与一は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。
官田渓の水をせき止め、水を確保する。それだけでは足りない。なので、ひと山向こうの曽文渓から山を突き抜けて水を引き、いちど貯める。貯めた水を嘉南平野一帯に効率的に配る設計。
アイデアと設計図だけでは、物事は進まない。資金の裏付けと実行組織が必要となります。
このころの日本は国力の点では分不相応に、台北においては上下水道を完成させたりしている。ここ珊瑚潭においてもかなり背伸びをしたのかもしれないが、結果はついてきた。
予算は国会で承認され、多くの人々が熱く動き、計画も動きはじめた。
工事事業は受益者が組合を結成して施行し、総工費は5400万円、半額を国費で賄うこととなった。台湾総督府が2674万、組合が2735万円。今の金額でいうと3800億円(1990年当時、古川勝三 - 『台湾を愛した日本人 -土木技師 八田與一の生涯』より)。
八田の立場は組合付き技師となり、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)まで、完成に至るまで工事を指揮した。
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工事に先立って、道路、鉄道、発電、送電線、宿舎、学校、病院まで建設された。工事にはアメリカから買い付けた大型機械が使われた。
そして工事は始まった。
@取水ダムと取水路の工事、(これには烏山嶺隧道工事が含まれる)
とA貯水ダム(官田渓貯水池工事)とB給水排水路の工事。これとは別にC濁水渓導水設備工事(こちらで5万ha受け持っている)も並行して行っている。
この4つの工事をひっくるめて嘉南大しゅう(土川、これをくっつけた字)というようです。
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そして総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・水路の延長が16000km。
あの「すごーい」とか言われている万里の長城が2600km程度です。
こちらは16000km。
幾多の困難を経て烏山頭ダムとして1930年(昭和5年)工事は完成した。
実は、この水だけでは、せいぜい7万ha分しかない。15万haの農地には足りないのでした。
1年ごとに給水区域を変えていく「3年輪作給水法」と呼ばれる農法を行いますが、この農法は、実行に多大な苦労を伴うものでした。
ダムや水路を作る工事も大変だが、水が来ただけでは農業にならない。小作農と自作農の入り混じる地域、近代農法についてはまったく無知な農民たち、200年以上も古い農法が続く地域で、今までの農法に代わって、3年輪作給水法という集団耕作制度を取り入れていくのです。実行には困難を極めましたが、ともかくも軌道に乗りました。
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その後の収支は、というと、通水が開始されてから3年後(昭和8年頃)より組合技師、農民の努力が目に見えて効果を生み始めた。ダム完成前、米、甘庶、雑耕作物など1400万円の収入だったものが、完成後は3400万円。差し引いて2200万円。この金額は工事費を3年間で償却する金額となった。効果はそればかりではない。土地の価格が上がった。全体で9400万円あまりの付加価値を生み。さらに、農民の暮らしもよくなり、子供に教育をうけさせることもできるようになった。
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本堤の長さは築造当初1.35km。高さ56m(これはレインボーブリッジやベイブリッジの橋げたの高さを越えるものです)、底面303m、丁部9m。堰堤の容積が650万立方メートル。何でも東京ドームに比べますが、その東京ドームの容積が124万立方メートルです。それをハイドロリックフィル工法(中心から粘土、土砂、砂利、栗石、玉石の順に固めていく工法)で造ります。これだと普通のコンクリのダムのように土砂で埋まってしまうことがないし、コンクリート以上の強度がでる。材料は20km離れた曾文渓の大内庄から鉄道を引いて、それで運びました。
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太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月、陸軍の命令によって3人の部下と共に大洋丸に乗船した八田は、フィリピンの綿作灌漑調査のため広島県宇品港で乗船、出港したがその途中、大洋丸が五島列島付近でアメリカ海軍の潜水艦グレナディアーの雷撃に遭い撃沈され、八田も巻き込まれて死亡した。
こちら
日本敗戦後の1945年(昭和20年)9月1日、妻の外代樹も夫の八田の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に投身自殺を遂げた。
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現在烏山頭ダムにある八田の銅像はダムの完成後の1931年(昭和6年)に作られたもの。
その後、金属類回収令の施行時や、中華民国の蒋介石時代に日本の残した建築物や顕彰碑の破壊がなされた際も、地元の有志によって守り隠され続け、1981年(昭和56年)1月1日に再びダムを見下ろす元の場所に設置された。(行ったときには花束がそえてあった)。
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八田與一記念館。氏の生い立ちからダムの完成を経て現在に至るまでの歴史や資料が展示されている。
うっかり通り過ぎてしまい、引き返してきて、よくよく探して見つけるほどに小さな建物だった。
学生さんかアルバイトの留守番の方みたいな人が勉強していました。
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斎藤充功 - 『日台の架け橋・百年ダムを造った男』
古川勝三 - 『台湾を愛した日本人 -土木技師 八田與一の生涯』
司馬遼太郎 - 「珊瑚潭のほとり」(『街道をゆく 40 台湾紀行』
三冊読んで出かけました・・・。
どこの位置にトンネルを掘ったのか、書いてなかったので、行ってみたら地図がありました。ここを掘ってトンネルを作ったのです。
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近くの道に八田路という道がある、その八田路を走り、1号線へ戻ります。
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再び1号線
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台南市の少し手前
またまた、どこを走ってよいか、よくわからない。
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台南市内です。
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台南をすぎて高雄に向かう途中
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犬・・・・・・、
よだれをたらして、こちらを向いている。
吠えて追いかけてきたという話を聞いていたので、警戒。
予想に反して、人間など無視して通り過ぎていきました。
2013年7月、台湾で52年ぶりに狂犬病の感染が確認された
イタチアナグマ143例、ネズミ1例、犬1例の感染が報告されている
人間への感染例は確認されていないので、大丈夫そう。
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オートバイが多い。
原付は2人乗りはあたりまえで、さらに子供を乗せて、3人づれで走っている人もいます。
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タクシーはほとんど黄色のプリウスというかんじです。
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信号機の手前では、決まって、このように、オートバイに取り囲まれてしまう。
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時間帯によっては、信号機の手前は、オートバイだらけになってしまいます。
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今夜はここに泊まる。日本語を話すオーナーだった。
次の日。
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