場所 | 自転車で台湾一周 12日目 基隆⇒台北 |
日時 | 11/12 |
コース | 基隆⇒台北 |
本日のまとめ | |
天気 | 曇 |
距離 | 79km |
0754 |
基隆の港
0838 |
海岸線の道から、坂を上って国道2号線に合流します。
しかし、急坂です。海岸線の道から、坂を上って国道2号線に合流します。
しかし、急坂です。
0839 |
犬。
この急坂の途中で、犬。
今、追いかけられたら困る。急坂を全力で登って逃げることが頭をよぎりました。
幸いに、犬は私を無視して行ってしまいました。
それにしても重い。ペダルが重い。
一度自転車から下りて、ホイールを蹴って空回ししてみた。
べつにブレーキがすっているわけでもない。
0845 |
と、ここで後ろのタイヤがグニャリとする。パンクだ。
0846 |
パンクではなく、バルブ部品がねじ曲がっていた。
先ほど、ホイールを蹴って空回ししたのが悪かった。
バルブ口を蹴って、それで曲がってしまったようです。
チューブを取り換えて、出発。
0915 |
原因はバルブ部品だとわかっていても・・・。
ていねいに、ゆっくり、本当に何も刺さっていないか、確認して出発です。
0921 | ||
0938 |
萬里隧道。
自転車で通れるか心配でしたが、通れるようです。突っ込みます。
0943 |
のどかな景色の中を走ります。
1004 |
再びパンク。
なんということでしよう。
通りかかったツーリングの方々が親身になって手伝ってくれました。
手伝ってくれたというより、やってくれました。
手持ちの2番目のチューブが補修したチューブだったので、「これじゃー」ということで、自分のチューブを提供してくれました。
「チューブ代払います」というようなことを、下手な英語で言ってみたが、「いい、いい」という。なんととい親切な人たちでしょう。おことばに甘えて、もらっちゃいました。
1015 |
そして、台湾の人たちは、風のように去っていきました。
ありがとう、ありがとう、と、聞こえはしない声で、お礼を言いました。
パンクの原因は、先ほどチューブを取り換えたとき、ていねいに作業したつもりが、チューブが、少しねじれていて、そこが摩耗して、パンクになったようです。
人の手を煩わせてしまった後悔の気持ちで打ち沈む心と、台湾の人の親切に感謝する心を抱えて、再び走り始めます。
1049 |
それでも、タロコや清水断崖あたりで、こんなことが起こらなくてよかった。
1107 |
台湾の人たちが、どうして、こうまで親日的かということを、旅の間ずーっと考えていました。
1110 |
・以下・・・・司馬遼太郎、街道をゆく、台湾紀行から・・・
第二次大戦後、台湾は日本の統治から離脱した。たれもが、自由で民主的な世がやってくるだろうと思っていたところ、あにはからんや、中国政権が台湾を接収し、派するところの陳儀、官兵は貧汚、腐敗、無能、特権横行・・・・。
日本時代、憲兵は拳銃を持っていたが、50年間、射ったことがなかった。官吏で汚職をするものもなかった。
このころの日本は国力の点では分不相応に、台北においては上下水道を完成させたりしているし、珊瑚潭においても前述のとおり、大規模な灌漑施設を作ったりしている。
1347 |
第二次大戦後、大陸から中華民国という国名を背負って泥靴で上陸してきた大陸系の人々が、支配階級を作り、ときに本島人を殺し、ときに凌辱し、むろん差別した。奇妙なことに隷属させられた本島人のほうが民度が上だった。このころの台湾は科学・技術を所有していたし、文明社会の資質のひとつである衛生と清潔を社会化していた。何よりも法治社会に習熟していた。ところが、大陸から来た人たちは、人によっては、ときに古代からやってきたような意識の持ち主もいた。また電気のない奥地からきた兵もいたし、なによりも全員が、人治主義から抜け出せないでいたし、当然ながら国家は蒋家の私物だったし、あらゆる官公衙(が)のポストは、それを占有した人たちの私物だった。古来、中国ではそうだったのである。
・以上・・・・司馬遼太郎、街道をゆく、台湾紀行から・・・。
1353 |
1359 |
オートバイレースのスタートです。
だーーーーっと、オートバイの列が走っていきます。
すごい光景です。私は、こちらの横断歩道の部分をコキコキと行きます。
油断していると、右折のオートバイが、ブイーンと曲がってきますので、要注意です。
14日間の旅ですと、必ず土曜日が2回あります。
その土曜日が今日です。宿の予約はしてありません。
目当ての近くの大飯店に行ってみたら、「満室です」と断られた、で、「あかり」に行ってみることにした、「あいてますよ」ということでしたので、「シングルもありますか」と聞いたら、「ある」という。よかった。
1615 |
ホテルの位置は地図ロイドで玄関先まで、ぴたりとルートを作っておき、今まで「あれっ」と迷ったことはなかったのですが、ここだけは違った。ストリートビューで確認しておいたにもかかわらず、ぐるりと1ブロック回って探してしまいました。
さて、とうとう台湾一周して台北まで戻ってきました。
いろいろな人たちに親切にしていただきました。まるで日本にいるようなかんじで旅行できました。明日は台北のサイクリングロードを走ってみます。
次の日
もう少し「台湾紀行」から引用です。
蒋介石は孫文の死後、国民党の指導者になり、やがて中華民国の独裁的な支配者になっていく。そして、日本の侵略が始まる。蒋介石は日本と戦い、新しく勃興した中国共産党とも戦った。やがて中国共産党に負けて、台湾に移ってきた。台湾の人々にとってはたまったものではなかった。大陸からやってきた中華民国がこの小さな島にのしかかり、軍と秘密警察によって敵性人なみの扱いを受けた。
ひとびとはたえず、ゆえなく「国家」から襲われる危険におびえていた。
1975年4月、蒋介石が死んだあと、長男の蒋経国があとを継いだ。蒋経国は私としての権力の命脈をよく知っていたようで、総統就任以前から台湾人の俊才を抜擢しはじめた。84年に李登輝氏を副総統にした。奇跡が準備されはじめたといっていい。1985年12月、蒋経国はおどろくべきことを公言した。「蒋家のものが権力を継承することはない」というのである。
88年1月に蒋経国が死んだ。
憲法の規定により副総統があたらしい総統になる。李登輝総統の誕生である。
クリオ(ギリシャ神話で歴史をつかさどる女神)が、どの国にも一度だけ微笑むとすれば、台湾では、このときだったに違いない。と、司馬遼太郎氏は言っている。
李登輝総統の誕生。これを境に台湾の人々の表情が一挙におだやかになりました。
次の日
自転車トップページへ