隠れ里のサイクリング大会。
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司前日、人吉を流れる球磨川左岸 遠くに見えているのが市房山。 |
司馬遼太郎氏が「日本でもっとも豊かな隠れ里だったといわれる」と言ったのは「街道をゆく3-肥薩のみち」の中でです。どのように書いているのかというと・・・・ --- 「こんどはどこにしましょう」 と、編集部のHさんがいうので、先だっては北方の八戸・久慈街道へいったことでもあり、こんどは気分を変えて南へゆきたいと思った。濶葉樹林が野山に豊かに茂っていて、葉のむれがきらきら日に照り映えていて、そのむこうに火山が白煙をたなびかせているようなところへゆきたいと思い、文県地図を持ってきて、南九州のあたりを繰ってみた。 「いっそ、肥後から山越えで、薩摩に入りましょう。途中、日本でもっとも豊かな隠れ里だったといわれる人吉を通って」 と、書いています。 --- 「日本でもっとも豊かな隠れ里」とは言っていないのです。「日本でもっとも豊かな隠れ里だったといわれる」と言っているのです。「だったといわれる」と言っているのです。部分的に切り取って都合よく利用するのもどうかと思いますので正確に引用します。 |
その「隠れ里」とは何か。 人吉球磨の領主相良氏は、急峻な九州山地に囲まれた地の利を生かして外的の侵入を拒み、日本史上稀な「相良700年」と称される長きにわたる統治をおこなった。その中で領主から民衆までが一体となったまちづくりの精神が形成され、寺社や仏像群、神楽等をともに信仰し、親しみ、守る文化が育まれた。同時に進取の精神をもってしたたかに文化を吸収し、独自の食文化や遊戯、交通網が整えられた。保守と進取、双方の精神から昇華された文化の証が集中して現存している地域は他になく、日本文化の縮図を今に見ることができる地域であり、司馬遼太郎はこの地域を「日本でもつとも豊かな隠れ里」と記している。 と、人吉・球磨の案内パンフレットには書いてあります。 そ人吉盆地は球磨盆地とも言われて面積は72km2あります。どれくらい広いかというと、山手線の内側の面積が62km2〜65km2と言われていますので、すっぽりはいるくらいの広さということです。 八代市から50km以上はいった奥地にあります。これだけの広さの平地がぽつんと山奥にあるのです。 |
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人吉城址 相良氏はその名前のとおり遠江、相良荘の出です。 相良頼景は鎌倉幕府成立時、鎌倉幕府成立時に頼朝に積極的に協力しなかったため多良木の荘に追放された。後に許され、多良木荘の地頭になった。その後、息子の長頼も手柄を立て人吉荘を与えられた。この手柄というのが二俣川の戦い。二俣川といえば神奈川県の免許試験場。そこでの戦い。北条が畠山重忠をだまし討ちにした戦いです。その戦いで北条側にいたのが長頼。多良木が上相良、人吉が下相良と呼ばれるようになったのは、この時からです。「同じ地域を600年〜700年も領有し続けた大名は南部家の他には島津家以外にはない」とよく言われますが、相良氏も700年続いております。 さて、「隠れ里のサイクリング大会」というのがあります。 人吉球磨盆地を自転車で一周する大会です。 私がサイクリング大会に出たわけではありません。 サイクリング大会のコースを、後日忠実になぞって走ってみました。 球磨川の霧の撮影をしている人がいましたので、少し話をして、 ここから出発します。 |
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これがサイクリング大会のコース図です。距離115km。 | ||
これが山手線の広さ。 | ||
その山手線を、ここに乗せてみます。傾けてあります。この広さです。だいたい、これくらいの広さの盆地です。 | ||
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久七峠の方へ向かい、途中から大畑駅へ登っていきます。 町は霧で包まれています。 ひどいときには、運動場を走っていると、向こうから走ってくる人とぶつかってしまうほどです。 秋から冬に向かう時期はとくにひどい。午前中はほとんど霧という状況です。しかし、それでも太陽光発電のパネルがあちこちに設置されています。 |
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コースが青石灰でひいてあるので、わかりやすい。 | ||
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それでも霧がすごい。 | ||
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高度があがってくると、空が見え始めました。 | ||
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ここから上は霧がない。 | ||
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大畑駅の方へ向かいます。 | ||
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道のまん中で犬が遊んでいます。 台湾でよく見かけた風景です。 近づくと、犬は、キャンキャン泣きながら逃げて行きました。 全部子犬でした。 |
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丘の上は晴れている。写真ではよく見えませんが、向こうの下界の方は霧に包まれています。 | ||
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下ってくると、このとおり霧です。 | ||
これは、別の日に山の上から撮った写真です。 この霧の中を走っています。 やけにコインランドリーが目につく地域です。なかなか陽があたらなくて、洗濯物が乾かない地域です。それでも太陽光発電、ソーラーパネルの目立つ地域でもあります。 |
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ずっと霧 | ||
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錦町の繁華街から離れて農道へ戻ります。 | ||
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また、霧が深くなってきた。 | ||
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陽がさしてきましたが、霧です。 | ||
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突然、霧がとれて晴れてきました。 | ||
今、この写真は球磨川の右岸の高台である「高山」というところから撮っています。 自転車は、向こうの山すそ、幸野溝に沿って走っています。 さて、隠れ里と呼ばれたこの地方には2つの特色があります。 これを司馬さんは次のように書いています。 ---- 北九州では筑後川と遠賀川がある。この2つの河流のほとりで古代文化をきずきあげた。 南九州では、この球磨川である。かつて筑紫といわれた北九州でのふたつの川の流れはゆるやかである。流域の大半は平野で、ひろびやかな農耕圏をつくり、早くから大規模の古代勢力をつくり、有史以前は独立していたかのようだが、中央政権ができるとあまり軋轢もなくそれに参加した。 が、渓谷を縫う球磨川流域の様相はちがっている。 ・・・・・ 畿内にできた中央政権は北九州の部族国家を参加させたが、南九州の球磨川の山襞山襞で八十の山襞国家をつくって暮らしている熊襲を従わせることは容易ではなかった。 「勝手なことをいうな」 という気持ちが、球磨国に住む熊襲たちにはあったにちがいない。 ----- 球磨川流域は、霧のたつ山峡として有名である。 川霧がたつと、山襞山襞に寄りこもって容易に消えず流れず、このことが上代球磨びとの呼吸器を悪くしたかもしれないが球磨の米を美味にしたことはたしかでである。 また弥生式農耕のやり方では、山襞こそ水田耕作の好適地であった。山襞ごとに球磨川へ流れ込む細流があり、その細流を段々畠に受けてゆけば稲作は容易なのである。たれに遠慮することがあるか。 球磨びとの性根は、その後の肥後人の気質につながってゆく。球磨の山襞で鍬をふるつていれば、天は紺の千代紙のように小さい。小さな段々畠に両脚をつけて小さな天を頂いていればめしが食えるのである。山襞にいるどの球磨びともそうで、その球磨たちを人間社会として相関させてつないでいるのは一筋の球磨川だけなのである。 ---- そういう人々が暮らしていたのです。 |
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サイクリングの道は幸野溝から右へ離れていきます。こちら1.2km 溝沿いに平らな道があります。こちら1.3km 溝沿いの道の方が100mばかり遠いようです。 |
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この先の橋が架け替え中のため迂回します。 | ||
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広域農道にはいります。 多良木町です。 先ほどの相良藩の話ですが、室町時代、南朝についたり、北朝方に走ったり、島津氏についたり離れたり、目まぐるしく立ち回り、上相良と下相良も争い、下相良が残った。 関ヶ原の戦い時には相良はひとつに統一されていました。関ヶ原の戦いをどのように乗り切ったかというと、二股かけた。はじめは西軍に属していましたが、本戦で東軍が勝つと、寝返って東軍について生き延びてきました。 明治維新時はどうかというと、幕末期には、ここの藩内でも佐幕だ勤皇だと、戦いが繰り広げられましたが、結局、島津と同じ動きになり、鳥羽伏見の戦いでは官軍方につき、会津戦争にも参戦して明治を迎えています。 これほど山奥の隠れ里にあるので、よほど裕福な藩政をしいていたかというとそうでもないらしいのです。いずれの藩主も、ものすごい短命で、たえず相続問題に悩まされています。加えて、球磨川の氾濫、旱魃による飢饉、一揆、藩政の失敗などで、結局藩の財政は健全にならないまま、ひーひー言いながら幕末を迎えたようです。 |
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多良木のあたり。 | ||
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暑くなってきたのでジャンパーを脱いだ。 | ||
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湯楽里という温泉施設の裏側を通過します。 | ||
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国道388号に合流します。 | ||
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市房ダムに登るためのループ橋にさしかかりました。 ループを作らずに、そのまま上って行ったらどうか、とも思いますが、それではやはり、勾配がきつすぎますね、ループにするか、旧道を拡張してスイッチバックにするかしかなかったのです。 |
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市房ダムに着きました。 市房ダムは重力式です。 |
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汗の原親水公園 | ||
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江代の方へ、ダム湖を一周します。 | ||
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湯山温泉はph10前後のアルカリ泉です。 | ||
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ひとまわりして、 ダムに戻ってきました。 |
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ダム天端から湖を見ています。 | ||
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ループを下っています。 | ||
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ループは、上から見ると、こんな具合です。 | ||
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湯前駅到着。 | ||
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元の道を引き返して農免道路にはいります。 | ||
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農免道路を走っています。 平成20年頃、国会のねじれによってガソリン代の中の税金が徴収できなくなり、ガソリン代が安くなった時期がありました。その税金は道路を作るために使われておりました。ただ、トラクターとか耕運機とか林業用の発動機などは道路を走りません。軽油をドラム缶で買ったりした場合は、申請して税金を還付してもらったりしていましたが、ガソリンの場合は区別がつかない。「農業用として還元してほしい」ということで、農業用道路を作ることにしました。それが農免道路。何をどう略して呼べば農免になるのかは私にはわかりません。 |
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向こうの山すそを走っています。 この写真は妙見野という高台から撮ったものです。 |
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多良木町の黒肥地地区は谷の形が手の指を広げたように入っており、隣の地区にいくには、このようにひと山登って下りて、そんな移動の仕方をしなければなりません。 | ||
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なので、地区を横切る農免道路は、このように上ったり下ったりの道になっています。 | ||
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自転車の場合、下りのスピードに慣れたまま、登りにさしかかると、無理なスピードを保とうとして、非常に疲れます。 | ||
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しようやばし 球磨川を渡って、左岸に移ります。 |
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ここから8300mほど球磨川サイクリングロードを走ります。 | ||
この写真は10月28日のサイクリング大会のときの写真です。 後ろの山、一本木が立っている山、は「高山」です。 |
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その高山から見た景色です。 | ||
しょうや橋を下流から見ています。 | ||
この写真は10月28日のサイクリング大会の写真です。 サングラスをかけていらっしゃるので、人の特定はできないでしょうから、使わせていただきます。 |
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錦大橋 この橋は新しいので地図によっては載っていないのもあります。 ここで、サイクリングロードを離れ右岸にわたり、「たかんばる」飛行場跡に登ります。 |
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この右のあたりが海軍航空隊基地、高原飛行場のあったところです。 終戦間際の時期には、松の根を蒸し焼きにして作った燃料で飛行機を飛ばそうとしたが、実際に利用されることはなく終戦を迎えたそうです。 |
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川辺川を渡る橋、柳瀬橋です。 | ||
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木材工業団地 | ||
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木材の墓場みたいな場所 | ||
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山江村の集落 こちらは山田川の流域です。 |
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山江の集落の中を走ります。 | ||
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高速道路へ向けて登り、下を抜けていきます。 | ||
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高速の上から山江のインターチェンジの方を見ています。 | ||
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反対の方角を見てみると、何も見えません。 | ||
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小高い山を乗り越えて万江川の谷筋へはいります。 この盆地には無数の川が流れ込んでいます。 |
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万江川沿いに そのまま人吉へ行けると思ったら そうではありませんでした。 |
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再び登ります。 | ||
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どんどん登っていきまして。 | ||
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丸岡公園に出ました。 | ||
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丸岡公園から下ってきて、人吉市街地。 | ||
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水の手橋を渡ってゴールです。 | ||
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川ではカヌーの練習をしています。 | ||
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到着です。 | ||
水の手橋 今、ここにいます。 紅取山から球磨川上流を見ています。 先に、私は、隠れ里と呼ばれたこの地方には2つの特色があると書きました。 もうひとつが、地理・地形的なもの、すなわち、非常に奥まったところにあり、入り組んでいてわかりにくいのです。 再び司馬遼太郎氏の「街道をゆく」からです。 ---- 相良氏は頼朝の鎌倉幕府から任命されて下向してから明治維新までじつに670年という長期間の家系をつづけている。 この間、戦国期ですこし領土がふくらんで多少の盛衰はあったが、江戸期ではわずか2万2千石にすぎない。しかし内福であったと言われている。内福の理由のひとつは、幕府に田地をかくしていたからだという。人吉盆地の奥には、ちょうど奥座敷や隠れ座敷のような小盆地がいくつかあって、外部からきた巡視役人の目はいくらでもごまかせるのである。豊臣期の検知のおかげで江戸幕府は世界でもめずらしいほどに満天下の生産状況をよくつかんでいた。江戸城には日本のなかのいかなる山間僻地の農業生産の基礎資料でもそろえられていた感じだが、そけほど土地関係に精通していた政権でさえ、球磨川上流の相良氏が隠しつづけていた人吉盆地の奥の奥までは知らなかったのである。いかに世間から隔絶された里であるかがわかるであろう。 ----- 「だから、隠れ里なのだ」とまでは書かれていない。 |
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