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脊梁とは・・・・背すじ、分水嶺となる山の連なりのことです。山脈は特に著しい脈状の山地をいい、山地は突起部の集合体です。 今回は九州の背骨となるような山、突起部の集合体を歩きます。人里からたいへん離れています。 九州の真ん中に九州山地の背骨となる山並みが2列、南北に走り、H型になって真ん中で繋がっています。 その東側の山並みを「霧立山地」、西側の山並みを「向こう霧立山地」と呼びます。 H型の西側、左縦棒の最上部が矢筈岳(1113m)そして南へ遠見山(1268m)三方山(1577.5m)高岳(1563.2m)国見岳(1738.8m)小国見岳(1708m)五勇山(1662m)烏帽子岳(1691.7m)椎葉越峠 白鳥山(1638.8m)銚子笠(1488.9m)とつながって不土野峠(1073m)に至ります。 H型の東側、右上部分が国道218、265号沿いの馬見原から黒峰(1283m)小川岳(1542.1m)五ヶ瀬スキー場 向坂山(1684.4m)白岩山(1646.4m)扇山(1661.3m)を経て椎葉村の滝と横野にそれぞれ続きます。 H型の横棒の左側が三方山(1577.5m)、右端が向坂山(1684.4m)になり、このあたりが最もアクセスの難しいところです。 |
このあたりの山並みを全部合わせて「九州脊梁山地」と呼びます。 これらの山々には日本一の清流として名高い川辺川、球磨川、一ツ瀬川、小丸川、耳川、緑川などの多くの川の源流があり、まさに九州の尾根です。秘境なのです。秘境だが、全く歩けないことはありません。なんとか歩いてみたいと思っています。沢沿いの道の無いところや山の中腹のケモノ道は絶対に長くは歩けませんが、険しい山道ではありますが幸いなことに尾根筋は歩けます。古来より山道はどこでも尾根筋につけられているのです。 この山道は古来より椎葉から外に通じる重要なルートで、そして豊後人吉間の交易の道でもありました。椎葉からはキノコ類・木炭・毛皮・などの林産物、一方の馬見原からは酒・味噌醤油・衣類などの日用品を運び込んでいました。 壇の浦の戦いの後、平家一族の人々が敗走、椎葉に入った道です。その平家追討のため那須大八郎も、この道をたどり椎葉に入りました。 時代は下り、西南の役では田原坂で敗れ、熊本城も落とせず敗走する薩軍本隊が霧立越を越えて椎葉へ下り、さらにひと山越えて江代村に下って球磨川沿いに人吉に入り、部隊再編を図ったと言われています。 その後、人吉も陥落し、薩軍は南下、都城から宮崎へ。今度は美々津の方へ北上します。美々津では耳川を挟んで政府軍と相対しましたが攻防戦の末、さらに敗走、北上を続け、延岡での戦いに敗れ、政府軍に完全に囲まれた状況下で、西郷隆盛は全軍に解散令を出しました。 そして、さらに西へ敗走、高千穂へ、そこから再び南下して美郷、西米良の村所、須木を経て小林、牧園、蒲生を通って官軍の待つ鹿児島へ帰り着きました。 なので、敗走の途中、同じルートは歩かなかったとしても、このあたりの山々、九州脊梁山地の景色は2度見たことになります。2度とも南向きに移動しているのです。 武器を携え、負傷者を気遣い、水の確保、食料の調達、宿泊の心配をしながら、追跡する官軍の影に怯え、彷徨に近い行軍だったことでしょう。 そのような九州脊梁山地です。山が深く人里離れており食料の確保が困難。そして、谷筋はもともと歩く場所はない。ずっと尾根筋を歩きますので水の補給もむずかしい。一発縦走はできそうにありません。なので、日帰りの積み重ね、14回に分けて歩いてみました。車・自転車を補助の移動手段に使って、毎回、周回コースにして縦走してみました。 |
九州で最も険しいところは赤い線のところです。 険しいというのはアクセスが良くなくて、高い山が連なっているところという意味です。ただ、山脈ではありません。 |
拡大します。南は白髪岳、北は山都。この間の峠は南から皆越峠、槻木峠、横谷峠、湯山峠、不土野峠、椎葉越、椎矢峠があります。この7つの峠を横切って、尾根伝いに歩いてみます。いずれも日帰りで、車と自転車と組み合わせで歩きます。 |
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その他、九州脊梁山地の周りの山々を歩いたり、自転車で走ったりしてみました。 |
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