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司馬遼太郎氏が「日本でもっとも豊かな隠れ里だったといわれる」と言ったのは「街道をゆく3-肥薩のみち」の中でです。どのように書かれているのかというと・・・・ --- 「こんどはどこにしましょう」 と、編集部のHさんがいうので、先だっては北方の八戸・久慈街道へいったことでもあり、こんどは気分を変えて南へゆきたいと思った。濶葉樹林が野山に豊かに茂っていて、葉のむれがきらきら日に照り映えていて、そのむこうに火山が白煙をたなびかせているようなところへゆきたいと思い、分県地図を持ってきて、南九州のあたりを繰ってみた。 |
「いっそ、肥後から山越えで、薩摩に入りましょう。途中、日本でもっとも豊かな隠れ里だったといわれる人吉を通って」 と、書いています。 --- その「隠れ里」とは何か。 人吉盆地は球磨盆地とも言われて面積は72平方kmあります。どれくらい広いかというと、山手線の内側の面積が62平方km〜65平方kmと言われていますので、すっぽりはいるくらいの広さ、これだけの広さの盆地が八代市から50km以上入った奥地にあります。 260万年ほど前、地殻変動による陥没でできた球磨盆地は、その後、火山活動によってせきとめられ湖ができた。湖は100万年くらい前に球磨村の大阪間あたりの鞍部が決壊して急流球磨川ができ、盆地内にはたくさんの支流から流れ込む良質な水と稲作に適した肥沃な土地が現れ、そして盆地内の昼夜の寒暖差の大きい気候はこの地域の粘りや甘みの強い美味しい米を作り出した。 また、盆地を囲む険しい山々と人吉から八代まで巨岩がひしめく急流が自然の防塞となって、さらに回りに大きな勢力もなかったことから、敵に侵略されることもなく、その田畑はほとんど荒らされもせず代々引き継がれていき、このことがさらに稲作文化の発展に寄与した。 平安時代末期・源平の争乱のころの球磨は平頼盛の領地でした。 1186年、頼盛の死去で球磨の多く在地御家人が自領の地頭に補任されます。 人吉球磨の領主相良氏は、1205年、畠山重忠の乱で鎌倉殿方として参戦し、球磨・人吉荘の地頭職を拝命しました。しかし、当初、相良氏は人吉と多良木あたりを支配していたに過ぎず、周辺には在来御家人があり、飛び抜けた力は持っていませんでした。 相良氏が遠江から球磨・人吉荘へ入国以来、明治廃藩置県までの約650年。人吉球磨の御家人達を完全に支配下に組み込んでいくのは、戦国直前の頃です。 盆地を囲む険しい山々が自然の防塞となって敵に侵略されることもなく内政に勤しんできたわけではないのです。 内乱を繰り返し、外へ拡大そして敗れて縮小、中央の戦い全てに絡み、繰り広げられた壮絶な生き残り戦を、最後に勝った側に味方して乗り越えてきました。 戦国がおわり、戦のない世になりましたが、山に囲まれた内陸の相良藩が発展するには、外部への交通網整備が必要ということで、林正盛という人が私財を投げうって球磨川の開削を指揮し、八代港まで様々な産物を運ぶことができるようになった。 また、盆地の低いところを流れる球磨川から水を取るため2本の灌漑水路が作られた。百太郎溝、全長約18km。灌漑面積は約1400ha。幸野溝は全長約16km。灌漑面積は約1200ha。 人吉球磨はやはり奥地であるため、幕府の検分も逃れた。表向きは2万2千石だったが、その実質的な石高は10万石を超えていたといわれる。 検分を逃れ年貢を回避した隠し田の余剰米で豊かになり、新たな産業、商品を生み出し、「隠れ里」として発展してきた。 しかし、宝永元年(1704年)頃、利根川・荒川改修工事の頃から財政が傾き始め、青息吐息で明治維新を迎えるに至ったそうです。 それでは、「濶葉樹林が野山に豊かに茂っていて、葉のむれがきらきら日に照り映えていて、そのむこうに火山が白煙をたなびかせているようなところ」(司馬遼太郎氏)、 「日本でいちばん豊かな隠れ里」と呼ばれる人吉・球磨地域をあちこち走ってみましょう。 ------------- なお、縄文時代から現在まで、この地域で人が飢えて死んだという形跡は確認されていないという。 年貢に苦しむ時代においても、この地域は取り立てを免れ(取り立ての役人が、この奥に人が住んでいるわけがないと思うほど秘境だったために来なかったらしい)、米焼酎の産地に成る程、米が豊富にあったのです。 ⇒(http://taragitararira.com/archives/987より) ------------------ |
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